ytanaka's blog

ロジカルに、ときにラジカルに。

「天気の子」論ーその構造と面白さ

前期もひと段落して時間ができたので話題の天気の子をみた。これが予想を超えて素晴らしくて、その理由を考えていたらこんな記事が出来てしまった。

ここではできるだけ主観的な感想を排して天気の子の物語構造を論じるつもりだが、既に多数の考察があるように、天気の子はシンプルなようでいて奥深く、メタな視点でも楽しめる作品である。 一見するとラノベ的ご都合主義にみえる部分もあるのだけど、思考の解像度をあげればそこには考察に耐えうるロジックがある。 描写はとにかく美しくて(とくにねぎを入れるあたりのシーンが好きだ)2回目はIMAXで見た甲斐はあった*1。ちなみに小説版も読みやすくて映画と組み合わせると感動と面白さが倍増なので是非おすすめしたい。

以下述べることは僕なりの解釈だし多分にネタバレを含んでいるので、ぜひ読む前に劇場で一見を勧めておく。


さてここからは本題に入ろう。本稿では帆高の持ち物であるキャッチャー・イン・ザ・ライをベースに、陽菜の能力とキミとボクとセカイの関係、いわゆる広義のセカイ系と呼ばれる枠組みからこの作品の持つ構造を謎解くことにしたい。以下順を追って説明していこう。

キャッチャー・イン・ザ・ライ

主人公である帆高の持ち物の中には「キャッチャー・イン・ザ・ライ」がある。キャッチャー・イン・ザ・ライはJ.D.サリンジャーの青春小説で、日常に溶け込めない主人公ホールデンが放校に伴って身の回りに潜む欺瞞とそれを許せない自分に対して葛藤しつつシニカルな口調で語る物語である。

作中において帆高は家出少年であるから、キャッチャー・イン・ザ・ライの主人公だとみなせなくもない。しかしどうにもその解釈は無理がある。キャッチャー・イン・ザ・ライの主人公であるホールデンはもっと鬱屈としていて、帆高のようにあれほどまで純粋ではないからだ。帆高は大人になりきれない子どもというより作中で陽菜が指摘したように少年そのものである。

ではキャッチャー・イン・ザ・ライホールデンに対応する人物は誰なのか。

僕が思うにそれは須賀さんである。映画版でも軽く触れられているが、須賀さんは名家生まれで10代の頃に家出してきたという設定になっている。これらの設定はホールデンと類似しているし、自分は大人になりきれない子どもだと須賀さんや夏美は吐露するシーンもある。

そして以下のように帆高と須賀さんが似ていることが夏美から二回も示唆される。

「放っておけなかったんでしょ、自分と似てて」

「......どういう意味だよ」

(中略)

「ね、似てると思わない、あの二人」

「帆高と須賀さんがですか?」

『小説 天気の子』新海誠(著)角川文庫、2019年

そして決定的なのが冒頭での土砂降りに襲われた甲板から落ちそうになった帆高を救うシーンである。これはまさしくホールデンが夢見たキャッチャー・イン・ザ・ライの行動原理そのものだろう。

僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。

ライ麦畑でつかまえて』J.D.サリンジャー(著)野崎孝(訳)白水社1984

まあ今作ではキャッチャー・イン・ザ・ライでなくキャッチャー・イン・ザ・デック(deck=甲板)というべきかもしれないが*2

つまりホールデンに憧れた家出少年である帆高をホールデンそのものである須賀さんが救っているという構図になっていることがわかる。これによって帆高は大人になれなかった子どもではなく純粋無垢な少年として物語をドライブさせる役割を持つことができている。

須賀さんが窓を開けた理由

須賀さん=ホールデンという等式で物語を見つめると色々と納得できる箇所がある。まず終盤に須賀さんが窓を開けて部屋が水浸しになるシーンがある。個人的に終盤においてこれは明らかに異質なシーンだと思う。どうして彼は窓を開けたのだろうか。

キャッチャー・イン・ザ・ライのラストにそのヒントがある。

第25章の最後、ホールデンが土砂降りの雨が降りしきるなかで回転木馬に乗ったフィービーを眺めているとき強い幸福感と感動のあまり涙しそうになるというシーンがある。これと構図がそっくりなのだ。ホールデンが純粋無垢なフィービーに対して涙したのと同じく、須賀さんは陽菜のために駆け回る帆高に対して涙したのだ。

ここまでをまとめると、大人になりきれなかった子ども=ホールデンとして須賀さんがおり、無垢な少年/少女=フィービーとして帆高がいることがわかる。ではヒロインである陽菜の役割は何なのだろうか。次にそれを見ていこう。

現代のクリエイターとしての陽菜

陽菜の能力は降りしきる雨から少しの合間晴れにすることであり、これは人々を少し幸福に、笑顔にするものである。帆高は陽菜の能力の印象として「気がする」をよくキーワードとして使う。確かに作中の天気は人々の実質を変化させない、彼らの気分を変えるものとして描かれている。そして僕が思うに陽菜の能力はクリエイターそのものである。どういうことか説明しよう。

創作の起点となるものは身近な誰かに笑顔になってもらったり、そのひとのために何かを作るのが製作者でありクリエイターの始まりだと僕は思っている。これはアニメ制作に限らず、絵を書いたり、曲を作ったり、アプリを作ったり、創作全てに関わる。創作は初めから社会を意識するわけではない。身近なひとへの贈り物として始まる場合が多いのではないか。少なくとも僕はそうだった。

そして陽菜の能力も、そういう種類のものだ。雨の日常にひっそりと短い時間かもしれないけど晴れ(笑顔)を与えるもの、対価がお金であること、人気が出て社会性を帯びていくこと、そして、テレビで人気になって陽菜が疲れてしまうことがそれを暗示する。

また陽菜が疲れて今回で休業にしようと思うんですと帆高が答えている相手の先に、前作「君の名は。」の主人公である立花瀧がいる。このことは陽菜が社会性を帯びたクリエイターになったこと、もっというと新海誠自身であることを示唆していると僕は考える。

そしてここから物語はセカイ系としての展開を迎えることになる。

天気の子とセカイ系

天気の子は今のところセカイ系として論じられることが多い印象を受ける。個人的にはこの作品を単純にセカイ系に括ってしまうのはもったいないし、加えてセカイ系というのは人によって定義がはっきりしていないのであまり論じたくはないが、ここは避けて通れない。一旦セカイ系という枠組みで考えることにしよう。

「選択」までの展開

陽菜の役割が新海誠自身であるなら、彼の創作そのものを陽菜は体現していることになる。社会性を帯びた陽菜は私としての自分が消失しそうになり、自分の能力とセカイ系という枠組みに包まれていく。 逃走から陽菜と再開するまでの展開はラノベ的で描写もかなりそれを意識しているように思う。特に凪くんが入れ替わったりする部分とか刑事たちがコメディカルに描かれていたりとか。

本筋に戻ると、帆高は陽菜のこの雨が止んでほしい?という質問に頷いてしまうことになる。そしてセカイを選択してしまいキミが消失する。

しかしここから物語は従来のセカイ系ではないものに徐々に変貌を遂げていくのである。帆高が陽菜を救うことを決意した瞬間から、セカイ系としてのキミとボクとセカイという構図からの脱出に物語は向かう。彼はそれまでの日常からの逃走でなく、陽菜に会うために走り出す。顔に付けられた傷がそれを暗喩する。それは秒速のような過去のイデアを追い続ける主人公ではなく、未来を選んだ言の葉の庭でもなく、過去に戻って現在をやり直した君の名は。でもなく、彼はまさに今彼女に自分の意思を伝えることを選んだのだ。

帆高がキミをあっさり選んだ理由

セカイとキミを選ぶところでもっと葛藤が欲しかったという意見をよく目にするが、おそらく新海誠はこれを狙って省いていると思う。つまりセカイとキミは帆高の中では等価ではないのだ。そもそも選択の時点でのセカイとは何だろうか?異常気象と連日雨が降りしきる東京だろうか?

考えてみると帆高にとって東京は憧れの土地である一方で一貫して冷たい場所でもあった。「東京って怖えーー」と彼は何度となく呟いている。作中の東京は帆高に対して何も提供していない。チンピラに蹴られ殴られ、泊まる場所にも困り、ぼったくり同然の価格で住と食を提供しただけだ。 だから彼はセカイとキミの選択に迷わない。

とはいえ僕はこの作品を見終わったとき作品の後半部に違和感を持った。やはり帆高の選択に対して引っかかるものはある。この違和感は明らかに沈んだ東京というセカイの結果、つまりセカイとキミの等価性が起因となっている*3。感想ブログではこの点について書くひとが多い印象がある。これら後半部のラノベ的な展開と描写に対する違和感・ストレスを感じる我々の感性は考察に値するものである。この正体は何なのか?

大人になりきれなかった子どもの二重性

僕が思うにホールデン=須賀さんという部分の構図、つまり大人になりきれなかった子どもというのは二重性を持っている。前述したように須賀さん(そして実は夏美も)は帆高に救われている。しかしその一方で帆高の選択に救われていない「大人になりきれなかった子ども」も存在している。

それはメタな視点でこの作品をセカイ系と捉える我々である。 もしくは帆高と陽菜のボクとキミの関係を外側から他者として見つめる存在として当事者の彼らの選択に違和感を持っているともいえるかもしれない。この二重性を実は帆高も持っている。小説版ではセカイとキミの選択に思い悩んでいることが記述されている。彼らの物語に救いはあるのか。

ラストーカタルシスの仕組み

救い・救われの構図

ラストシーンの考察に入る前にこれまでの登場人物の物語における位置付けとその役割を整理しよう。関係は以下のような構図となる。

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まずキャッチャー・イン・ザ・ライをベースにした構図が①でありここでは須賀さんと帆高が救い・救われている。そして②でセカイ系としての枠組みで帆高と陽菜が救い・救われている。ではもし③に該当するものがあるとするならそれは何だろうか。最後にここの構造を考えていくことにしたい。

陽菜の祈りで救われたのは誰か

前節で③に該当する部分、すなわち陽菜と須賀さんに対応する部分に救い・救われがないと述べた。陽菜から須賀さんに対しての救いは作中では描かれていない。これは須賀さんが3年後に大人になっていることを示している。すなわち陽菜から須賀さんへの救いは物語中では効力を失っているのだ。

では大人になりきれない子どもに該当するのは誰だろうか。ホールデン方式でもセカイ系方式でも救えなかった存在、少年と少女によってセカイが救われるという構造をもっても救えない存在、大人になりきれない子どもの二重性から一面を引いた存在は何か。

そうそれは3年後の帆高であり、新海誠のファンであり、大人になりきれない我々自身である。

終章の陽菜に会いに行くシーンで帆高はどんな顔をしていけばいいかわからないという。須賀さんは気にするな、と言ってくれるが帆高は思い悩む。これは須賀さんは救われて大人になったが彼の役割を今度は帆高が引き継ぐことになってしまったことを暗示する。

そんな帆高と従来の図式で救われなかった我々に対し、この映画は救いを与える。 終章のシーン、降り続く雨のなかでも力強く進み続ける東京の姿と、天気の子でなくなっても祈り続ける彼女の姿によって。 そして彼らが共に自らの意思で選択した今を強く生き残ろうとする姿勢が、天気雨の陽射しと共にとても美しく描かれている。

考察は以上だが、実は正直今でもこの感想でいいのかを迷っている。 しかしラストシーンまでの構図と、作者の選択の果てにある最後の光景の美しさに、エゴイズムという僕のなかに生まれる当たり前の批判を乗り越えて、どうしても僕はカタルシスを感じてしまうのだ。

(追記 at 2019/08/29) 約一ヶ月経ってみて再考してみると、やはり個と社会の対立という軸で作中の選択は批判されうる部分も多いと思うし、その二項対立が解決しているというわけでもないと思い始めた。 またこの作品における選択と所々の暴力性のあるストーリーが自分も含めて多くのひとに受け入れられているという事実が、ややもすると恐ろしいことなのかもしれないと考えたりしている。 どうなんだろう、難しい。

*1:この記事を書き上げたあとにIMAXで2回目をみたのだが2回目の方が選択の意味やラストシーンの意味がよりはっきりと掴めてさらに感動してしまった

*2:in the deckよりもon the deckの方が自然な感じがするが、あのシーンは土砂降りで甲板には誰もいなかったし須賀さんは甲板の中からスッと出てきた印象を受けたのでこうしている

*3:そもそも沈んだのはトーキョーであってセカイではないんだけど、これは別の論点だと思ったのでここでは論じないことにした